この夏、僕は岩魚釣りに夢中だった。不覚にも、どっぷりと嵌まった。

　そもそも、仕事の忙しさによりクライミングに対するモチベーションがぷつりと切れたことが発端であったはずだが、振り返ってみると、毎週、足繁く渓通いを続けていた。

　岩魚釣りといっても基本的には沢登りであり、幸い、碓井さんは昔はサワノボラーだったことから、こんな僕の浮気心にもいやな顔をせず、同行してくれ、また、時々、竿を出し、驚くような獲物を釣りあげた。 そんな忙しいひと夏であったが、その間、たまに彼女と都合が合わず、そんな時、僕は一人で渓に出かけることとなった。

　ところで、僕の車は排気量が大きく、また、車重もあるため燃費は極悪で、だから奥秩父あたりであっても一人だとガソリン代は僕の小遣いに大きく響いた。 そんな悩みを、勤め先の若者にこぼすと、彼は自分のオフロードバイクを貸してもいいと、申し出てくれた。

　僕も若かりし頃の一時期、バイクに夢中になった一人だから、バイクにまたがることの興味も加わり、彼の好意に甘えることにした。
３０年ぶりのバイクツーリングはなかなか快適で、秩父市内の渋滞もものともせず、また、４ストローク２５０ｃｃのエンジンは、３３ｋｍ／リットルという驚くほどのエコ性能を発揮した。僕の車の５倍以上６倍近い燃費を打ち出したことになる。正直、驚いた。この時点で、僕はバイクの購入を決めた。

　僕は、トライアル競技に夢中になった時期があった。昭和４８年にホンダはバイアルスTL125というトライアルバイクの販売を始めた。日本国内では、まだ、トライアル競技は普及しておらず、バイク雑誌である「モーターサイクリスト」と「オートバイ」の二雑誌で、トライアル発祥の地でのスコティッシュトライアルの事、モンテッサというバイクメーカーが無敵であること、当時はサミー・ミラーという選手が有名であることなどを報じた。

　僕のまわりのバイク小僧のうち、二人がすぐにこのバイアルスに飛びついたが、僕は、まだ、当時乗っていたトレールバイクのローンが済んでいないことから、飛びつくわけにはいかず、彼らのアクロバチックなバイク遊びを見る側に甘んじた。

　その翌年、ヤマハがＴＹ250というトライアルバイクの販売を開始した。僕は、丁度そのときローンを完済し、こいつに飛びついた。ホンダバイアルスと比べ２倍の排気量を持つこの「ティーワイ」は非常にコントロールしやすく、ウイリーなどは朝飯前であった。僕はフローティングターン、ステアケース登り、スタンディングスティルといった技の習得に汗を流し、近場での競技会に参戦した。

　今回、バイクの購入にあたって、チビで短足で体重のない、まさに軽薄短小な僕の体型に鑑み、買うならトライアルバイクと決めた。余分なパーツは削ぎ落とされ、一般走行には窮屈なまでにシートは低く、林道のさらに奥までも分け入るだけの踏破性を持っているトライアルバイクを探し始めたそんな矢先、ひょんなことから程度のいいトライアラーを探し当てることができた。

　秩父方面に釣りに出かけた帰り道には、きまって中華定食屋「悦楽苑（秩父市横瀬の国道299号線沿いある）」に立ち寄っていた。ここは、店舗の横がホンダバイクのコレクションルームになっていて、モンキーをはじめいろいろなホンダバイクが展示されている。また、名物の味噌ラーメンが健啖家に大受けで、そんなことから、バイクのツーリスト仲間には口コミで知れ渡っており、また、過去にバイク雑誌に紹介されたこともあるらしい。また、ヤフーで「秩父、悦楽苑」をキーワードに検索を掛けると２０件近くヒットする。さらに、「山と渓谷」にも昨年、この「味噌ラーメン」が紹介されたようである。

　さらに、主人の山本さんはテンカラ釣りと鮎釣りもこよなく愛す釣師で、店内には「潜水艦岩魚」や「尺山女魚」の剥製、キスで言うなら「ひじたたき」サイズの鮎の剥製が数多く飾られ、また、テレビからは常時、釣りのビデオが流されていたりと、俄か釣師の僕にとっては夢のような空間なのだ。だから、秩父へ出かけた後は、必ず、もやしテンコ盛りの味噌ラーメンを食べに寄っていた。

　たまたまそのときは僕は一人で、自分の車で奥秩父へ出かけ、帰り掛けにここの味噌ラーメンを食べに寄った。山本さんは僕の車に興味を示し、そんな雑談の延長線上で、僕がトライアルバイクを探していること、しかし、国内のトライアラーの生産は既になく、そのため程度の良いバイクはみつからないこと等を打ち明けると、山本さんは僕をコレクションルームの奥へ連れて行った。
なんと、そこにはまだ走行距離が９００ｋｍに満たないホンダのＴＬＭ２００がひっそりとたたずんでいるではないか。競技に用いられた形跡のない新車同様の状態で鎮座しているのだ。

　僕はすぐに購入したい旨伝えると、即答、快諾していただけた。

"悦楽園の人気メニュー”もやしテンコ盛り味噌ラーメン（なんと500円）。　　　TLM200を前に悦楽園主人の山本さんと記念撮影"